2020年版・福井福井方言集をアップします。
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2019年10月24日の記事、初期小説「底流」の(2-5)以来、記事更新を休んで来ました。
「底流」は、柴田哲夫「底流」として原稿完結し、KDP出版を完了しました。
このHPには、他にエッセイ等も収めてありますが、一応の役目を済ませ、当分の間、記事更新を休止する事と致しました。
いつかまた、記事更新を始め、読者の方とお会いできる日を楽しみにしています。
新サスケ
彼が二年生になって夏休みが近くなったある日のことである。彼は担任の先生から、他のクラスの1人の女生徒へ用事を言伝てられた。初めてその教室を彼は訪ねるのだった。ドアに近い机の椅子に座っていたのが、ほかならぬ大麻生令子だった。彼女は前の席の女生徒と話を交していた。彼は一寸ひるんだが、「ちょっと。」と声をかけた。彼女は長い髪を振って、顔を上げた。あいかわらず目が大きかった。これまでの愉快な話の余波なのか、目に笑いを見せて、彼の次の言葉を待っていた。「ちょっと―さんを呼んでもらえないかな。」と頼むと、彼女は立ち上がって、その女生徒のいるらしいあたりへ、大きな声で何回も呼びかけた。
ドアから退がってその女生徒が出て来るのを待っているあいだ、彼は心の和んでいるのを感じた。
彼がバケツを片手に提げて中庭の道を帰りかけると、向うから女生徒二人が何やら話しながらこちらへ歩いて来る。彼は女生徒たちと正面から擦れ違うのは苦手であった。彼の苦しみの一つと言って良かった。近づいて来る二人が、大麻生令子とその友だちだとわかると、彼はさらに不機嫌になった。落ち着きのない視線を、石畳に落としたり、花壇にやったりした。
いよいよ距離が縮まって、彼の目と彼女の目が合った瞬間、幕を垂らしたように周囲が暗くなった。晴天が、一瞬して闇となった。闇の中に周囲のすべてが、彼女の友だちさえも消し去られて、闇を背景に大麻生令子の姿だけがくっきりと映えた。異様な光景だった。彼女は笑っているようだった。大きな目や、口もとが確かに笑っていた。彼女はかつてなく魅力的であった。
しかし一瞬の幻覚はすぐ冷めて行き、現実がその権威を取り戻す。彼女の姿も目の前から消えていた。映画を見終わって暗い館内から出た人と同じように、彼はまだ完全には覚めやらぬ心持ちで、再び頭上にある青空を見上げた。バケツを提げたままなのに気づいて彼は走り出して行った。
小説「底流」の(2-3)
割り当てで彼は掃除に使ったポリ・バケツの濁った水を捨てに行かねばならなかった。把手を持ち上げると片手には重すぎて上体が引っ張られそうだった。階段を降りると狭い出入口をくぐって中庭に出た。空は青く晴れ渡って、外の空気は胸がせいせいした。古びた石畳の通路を歩みながら、彼は両側の花壇に目をやった。矢車草たちがひ弱そうに伸び上がって頂きに青紫や紅色の花をつけていたり、またある花壇には薔薇の赤や黄の鮮やかな花が葉叢から咲き出ていたりした。校舎の西の端にある足洗い場へ彼はバケツの濁った水をあけた。水道の栓をひねって新しい水がポリ・バケツに一杯になるのを待っているあいだ、彼は中学生の頃、父から借りて読み耽ったある種苗雑誌のことを思い出した。グラビアに載せられた薔薇や、菊や、サボテンや、その他の草花のカラー写真が目くるめくように彼を夢中にさせた。今、彼の家の玄関にはサボテンが幾鉢か放ったらかされてあるだけである。
小説「底流」の(2-2)
彼らが朝どやどやと市内バスに乗り込んだとき、彼は中学校で同級だった女生徒と顔を合わせた。「お早う」と彼女の方から挨拶したので、彼も軽く返事した。
彼が最も鬱ぎこんでいた頃、彼は一度廊下で彼女とすれ違ったことがある。そのとき彼女は何か言いたそうに彼の顔を見たのに、彼は目を伏せて避けた。彼はそんな気持はなかったのだが、二、三日後に他校へ進んだ同級生と一緒になると、彼女と会ったらお前が朝の挨拶さえせずに逃げるように行ってしまったと恨んでたぞ、と言われたものだった。
バスの奥の方に彼は席取った。彼女もあちこち物色していたが、最後に彼の席と通路ひとつ隔てた、ちょうど隣りの席に腰かけた。彼と同じクラスの女生徒が一人奥に入って来て、彼の隣りの一人分空いた席に目を落とした。しかしくるりと背を向けてしまうと、立ったまま反対側の彼の同級生と話を始めた。
大麻生令子の姿が見えた。彼女も押されて奥へ来ると、その二人の話に加わった。立った二人は主に聞き役に回って、元・同級生ばかりが元気な声で喋っているようだった。話が途切れて三人とも黙りこんだ時、彼女はふと気づいたように、「そこに掛ければいいのに。」と二人を見上げて言った。彼の座っている隣りは一人分空いたままになっていたのである。すると大麻生令子が小さい声で、「あの人エッチだから。」と言った。少なくともそう言ったように彼の耳には聞こえた。彼はきつく眉根を寄せた。これまでの朝らしい気分はどこへやら、重い心持になった。彼の学校での行動から彼がいわば好色者に見られる恐れのあることは自身十分に知っていた。しかし彼は自然にしろ異性にしろ、見る人に没入や性の欲求があるからこそ美しいのだと考えていたし、また美はすべての中で絶対的な位置を占めていたから、彼は異性の美に敏感なことで自分を責めたりはしなかった。ただ彼は他人が向ける嫌悪や侮蔑に神経質だったのだ。
バスが校門前に止まって皆が立ち上がったとき、同級だった女生徒が彼に同窓会の話を持ち出した。しかし彼は憂鬱そうに、「う、うん。」と言ったきり去ってしまった。声も嗄れていた。その急変ぶりに、彼女は茫然として彼を見送った。
小説「底流」(2-1)
彼のクラスも女生徒が半数近くを占めていた。彼女たちは華やいだものを身につけはじめてていた。よく助平がかった話をする先生がいて、あるときクラス中の生徒の前で、「一応、君たちはもう一人前だよ。女の子なんかもうお嫁にゆける身体をしている。」と言ったことがあった。
彼女たちの中でも彼は一人の女生徒―大麻生令子―に目を止めていた。顔立ちは整っているが、可愛らしいというでもない。ただ目が大きかった。授業の合間の休み時間に、彼女が席に座ったままだと、彼は背後からよく注視していた。時々彼女が振り返って彼の視線に気づき、気がかりそうな様子をしたが、しかし彼はせいぜい目をそらすだけで彼女の心の動きには無関心な風であった。
彼は一人の女生徒の美に惹かれる。すると当人や他人の目を恐れる心がそれを叱る。この争いが瞬時に起こるから、たとえば廊下で出会った女生徒に美を見つけると、彼は張っ倒されたような感じを持つことがあった。
しかし彼は教室で冷たい横顔ばかり見せていた。対象と距離を保ち冷酷な目で眺めなければ、対象の美は捉えられない。女生徒たちと気軽に振舞って楽しみを味わうか、遠くに居て美を眺めるか。彼は後者を選んだ。そうするように追い込まれたのだ。彼はあちこちに美を見つけえたにもかかわらず、不幸であった。
小説「底流」(1-2)
彼はぜいたくにも郊外バスと市内バスと二つを利用して学校に通っていた。近所には毎日自転車で通う上級生さえいたのだが。
夏のある日、彼は授業の終った後も適当に時間を潰して学校を出た。学校の近くの停留所でバスを待ったが、来るべき時刻を相当過ぎてもまだ来ない。彼と一緒の二、三人の大人も待ち飽きたらしく、バスが来るはずの道を遠くまで見遣ったりした。彼はたえず身体を揺らせなどしながら辛抱していたけれども、とうとう神経的にじりじりし始めた。
バスが来て乗り込んでからも、彼の一度昂った神経は平静に復しなかった。郊外バスのターミナル近くで降りて、大勢の人混みを眼にすると、今度は頭の中まで混乱して来た。ターミナルの建物を目の前にした四ツ辻の横断歩道まで来たとき、彼は無駄に大回りになる右手の横断歩道を歩き出した。何の目的があるでもない、ひとときの狂気が彼を駆ってそうさせたのだった。渡り終えると彼はかすんで来そうな眼でしばらく空を見上げた。空の青色は褪めていた。
高校文芸部の年刊部誌「白房」1968年号(3年生時代?)に、僕が初めて書いた小説、「底流」を紹介します。当時、傾倒していた実存主義、新感覚派、新心理主義のごた混ぜと言えば、壮語でしょうか。「白房」に載せなかった、結末を付けます。
底流(1-1)
春の日の毎日々々は日の光に溢れてけだるく流れて行った。
高校に入学して一ヶ月くらいは、青空ばかり続いたようだった。
その後で雲行きが怪しくなった。彼はひどい憂鬱に陥って、毎日の生活が、ことに学校全体が何か薄暗いものに思えた。授業中の或る時など狂暴な発作めいたものに襲われながら、授業中なれば椅子から立ち上がる事一つ出来ず、前の席の生徒のうなじ、彼の目の前にじっとして動かないそれを憎々しげに見つめた。先生が張り上げている声も、騒音と同じ意味のないものに聞こえた。
彼にはこれと同じような経験がいま一度あった。別の授業の時、痩せて神経質そうな先生は生徒たちに向かって話しかけながら、黒板の前をしきりに行ったり来たりした。彼の考えは、既に授業を離れてどこかをさまよっていたが、それが先日の生物の授業に飛んだ。生物学が進歩するにつれて、動物でも植物でも生物の内部はそれが生きて行けるように実にうまく出来ていることがわかって来た。ホルモンや酸素量にしろ、たとえ異常が起こってもそれに対応する器官があって、たちまち調整してしまう。機械なら自動調整装置付きという所である。彼は生物を自身の意思以前に生の方向へ方向づけた、いわば造物主とでも呼ぶべき者が、撲ち殺してやりたい程憎かった。
それにしても生物と機械といったいどこが違うのだろうと彼は考えた。蛋白質が成分であることで定義したなら、他の星に炭素や金属の身体を持ちながら人間のように思考し行動するものが存在しても生物とは呼べなくなる。また自力で子孫を増やして行く事で定義したなら、なるほど現在では自己増殖の出来る機械は現れていないが不可能事ではないし、もし完成した時にはその機械を生物に仲間入りさせねばならない。もともと生物と機械とは折り合わないと考えるのは誤っているのかも知れない。生物は、人間の手の及びそうにないほど精巧な、それでいて脆くもある機械の一種なのだ。
そんな眼で黒板の前に立った先生を見上げると、それがもう人間ではなく、無機質と有機質と多量の水とを詰め込んだ頭陀袋に見えたのである。先生の黒い両目の中に、彼は泳ぎ回っている粒子を見た。
その日の夜に見た夢の中までその先生は現れた。影が差して薄暗い廊下に、先生は気味悪い姿で立ちながら、ガチャリガチャリ音立てて彼に迫って来た。
僕が関わった同人詩誌「群青」第2号(2005年2月20日・刊)より、巻末の「広部英一氏追悼」を転載します。詩誌「群青」から、逆年順に転載して来た散文も、これでしまいです。
広部英一氏追悼
新サスケ
僕は高校生時代、文芸部に属していて二年生の時に、先輩の尽力でガリ版刷りの詩集を出す事ができた。その批評会にこれも先輩の尽力で、学外から広部英一さん、Kさん、Iさんを招待する事ができた。生徒会館の二階で開かれたその批評会で、Kさん、Iさんの一言ずつを覚えているが、広部さんの発言は覚えていない。そのあとでの全員写真が残っている。
そのあと、福井県立図書館の一室で毎月一回、広部さんが開いていた読書会に、文芸部の仲間と参加するようになった。文学に関わる大人たちとの初めての出会いであった。
帰郷後の僕が再び詩や文章を書くようになって、広部さんにも会うようになった。印象深いのは、文学同人誌「日本海作家」百号を祝う会と、詩誌「青魚」五十号を祝う会に、彼が「同人誌は長く続く事ばかりが良いのではない」と強く発言した事である。
僕が第一詩集「みだれた足跡」を出版した時、広部さんに「月刊福井」に持っていた書評欄で暖かい言葉を貰い、とても嬉しかった。酷評する人もいたからである。
「南信雄全詩集」を受け取りに広部さんの自宅に伺って玄関で対した時、正座して渡して下さるので、僕はどぎまぎしてしまって、少し膝を折っただけだった。
広部さんが中心になって毎年催した「清水町詩劇場」、冨田砕花賞受賞を祝うパーティ、現代詩文庫での詩集発行を祝うパーティに僕も出席して、一眼レフカメラで写真を写して送った所、喜んで下さったようで、いつも葉書を頂いた。
ある席での雑談のおり僕が広部さんに、県立図書館での読書会の、月ごとの案内葉書(広部さんが自筆ガリ版印刷したもの)を今でも何枚か持っていると話すと、彼は「もう先が長くないから、そういうものは回収したい」との事だった。僕が自宅で資料を捜すと、その葉書はあったけれども、とても懐かしくて手放せなかった。そのコピーと詫びの手紙を送った事だった。
広部さんは、文学に厳しく、人に優しい方だった。 (了)
僕が関わった同人詩誌「群青」の、第5号(2006年2月10日・刊)に乗せたエッセイ、「ビブリオマニア」を転載します。
ビブリオマニア
新サスケ
「ビブリオマニア」という英語があって、「蔵書癖」「書籍狂」の訳語が出ているが、「愛書狂」という意味もあるらしく、この線で書いてみたい。
まず古本を買って来て値札を剥がす時、値札の端を爪で起こして引っ張ると、本が傷みやすい。ヘアードライヤーの熱風を当てて値札を剥がすと、糊が柔らかくなるのか、きれいに取れる。
また本が汚れている場合は、「キッチン・クイックル」などの洗浄紙で表紙や上下を拭く。あまりこすると、紙がけば立ってくるので、程々にしなければいけない。
本の帯が破れかけていたり、切れている場合は、本や箱から外して、セロテープで裏打ちして戻す。継ぎ目をきれいに合わせなければいけない。
古い文庫本などで、パラフィン紙カバーが無くなっていたら、文房具店で買ったパラフィン紙を、大きさに合わせて切り、被せてやる。大事な本の箱に、カバーがない場合は、セロハン紙を買って来て、同様に被せる。セロハン紙は折り目がつきにくいから、箱に被せてから、折り目にヘアードライヤーの熱風を当てると良い。
雑誌を日数を掛けて読む場合、事務用品店で買ったビニールカバー(大きさはほぼ同じである)を被せて読むと、表紙が汚れず本体が傷まない。
本を大事にする事で、いま思い出す方法はこれくらいである。(了)
同人詩誌「群青」第8号(2007年2月15日・刊)より、同人・木下龍子さんへの追悼文を転載します。
とびきりの笑顔
新サスケ
木下龍子さんに初めてお会いしたのは、お互い高校生の時だったろう。「南信雄氏追悼」にも書いたのだが、高校文芸部員の時に他の部員と共に、仁愛女子高校文芸部の方たちと会った事がある。当時、木下さんはI・秀子さんと共に詩で活躍されていて、福井新聞に取り上げられ、また二人詩集「十七歳の詩(うた)」を上梓した。その場に木下さんは当然居られただろうが、僕にイメージの記憶は残っていない。木下さんもその時の僕を憶えていらっしゃらなかっただろう。
年月は過ぎて、福井県詩人懇話会などの催しの席上、彼女に会う事が多くあった。僕は会のカメラマン役をしており、撮った写真をサービスで焼き増しし各人に送らせて貰っていた。彼女に送った写真の中に輝くような笑顔の一枚があり、葉書でか「少女のような私が写っていて、嬉しい。」とお便りがあった。
2005年の5月、福井新聞社で「北陸現代詩人賞」の贈賞式があり、その後のパーティ(ノン・アルコール)の場で、K・徳夫さんと第3号まで出していた同人詩誌、「群青」への参加を木下さんに要請した。断られる事が怖くて僕は、あらぬ事を口走ってしまったのだが、彼女は静かに受け止めてくださり、数日後、承諾の旨を報せて来てくれた。
彼女は「群青」4~7号に、詩4編、エッセイ2編を書いてくださった。あからさまな生活の詩は書かれなかったが、情感の豊かさを感じさせる作品を書かれた。またエッセイでは、なぎなたの練習の事を書かれ、読者からは「優しい詩と、なぎなたの猛者のギャップが面白い」との感想の便りもあった。
彼女は57歳で、先に逝かれた御夫君の許へ行ってしまわれた。彼女の晩年になってしまった1年半余に、「群青」に詩やエッセイを発表され、またしばしば同人3人で(稀には2人で)喫茶店に集まって、文学の話や雑談に時を忘れた事で、ひとり家に籠もられることの多かった生活が、少しでも明るいものになったのでは、と願っている。
生前の彼女に最後に会ったのも、2006年12月16日、喫茶店で3人で話し込んだ時だった。別れ際に車の中から、いつもの輝くような笑顔をされたのが、鮮やかに残っている。
2007年1月13日、風邪をこじらせて急逝された。
さて生き残った者は倒れるまで、生活や文学に励まなければならない。