彼がバケツを片手に提げて中庭の道を帰りかけると、向うから女生徒二人が何やら話しながらこちらへ歩いて来る。彼は女生徒たちと正面から擦れ違うのは苦手であった。彼の苦しみの一つと言って良かった。近づいて来る二人が、大麻生令子とその友だちだとわかると、彼はさらに不機嫌になった。落ち着きのない視線を、石畳に落としたり、花壇にやったりした。
いよいよ距離が縮まって、彼の目と彼女の目が合った瞬間、幕を垂らしたように周囲が暗くなった。晴天が、一瞬して闇となった。闇の中に周囲のすべてが、彼女の友だちさえも消し去られて、闇を背景に大麻生令子の姿だけがくっきりと映えた。異様な光景だった。彼女は笑っているようだった。大きな目や、口もとが確かに笑っていた。彼女はかつてなく魅力的であった。
しかし一瞬の幻覚はすぐ冷めて行き、現実がその権威を取り戻す。彼女の姿も目の前から消えていた。映画を見終わって暗い館内から出た人と同じように、彼はまだ完全には覚めやらぬ心持ちで、再び頭上にある青空を見上げた。バケツを提げたままなのに気づいて彼は走り出して行った。
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