僕が関わった同人詩誌「群青」第2号(2005年2月20日・刊)より、巻末の「広部英一氏追悼」を転載します。詩誌「群青」から、逆年順に転載して来た散文も、これでしまいです。
広部英一氏追悼
新サスケ
僕は高校生時代、文芸部に属していて二年生の時に、先輩の尽力でガリ版刷りの詩集を出す事ができた。その批評会にこれも先輩の尽力で、学外から広部英一さん、Kさん、Iさんを招待する事ができた。生徒会館の二階で開かれたその批評会で、Kさん、Iさんの一言ずつを覚えているが、広部さんの発言は覚えていない。そのあとでの全員写真が残っている。
そのあと、福井県立図書館の一室で毎月一回、広部さんが開いていた読書会に、文芸部の仲間と参加するようになった。文学に関わる大人たちとの初めての出会いであった。
帰郷後の僕が再び詩や文章を書くようになって、広部さんにも会うようになった。印象深いのは、文学同人誌「日本海作家」百号を祝う会と、詩誌「青魚」五十号を祝う会に、彼が「同人誌は長く続く事ばかりが良いのではない」と強く発言した事である。
僕が第一詩集「みだれた足跡」を出版した時、広部さんに「月刊福井」に持っていた書評欄で暖かい言葉を貰い、とても嬉しかった。酷評する人もいたからである。
「南信雄全詩集」を受け取りに広部さんの自宅に伺って玄関で対した時、正座して渡して下さるので、僕はどぎまぎしてしまって、少し膝を折っただけだった。
広部さんが中心になって毎年催した「清水町詩劇場」、冨田砕花賞受賞を祝うパーティ、現代詩文庫での詩集発行を祝うパーティに僕も出席して、一眼レフカメラで写真を写して送った所、喜んで下さったようで、いつも葉書を頂いた。
ある席での雑談のおり僕が広部さんに、県立図書館での読書会の、月ごとの案内葉書(広部さんが自筆ガリ版印刷したもの)を今でも何枚か持っていると話すと、彼は「もう先が長くないから、そういうものは回収したい」との事だった。僕が自宅で資料を捜すと、その葉書はあったけれども、とても懐かしくて手放せなかった。そのコピーと詫びの手紙を送った事だった。
広部さんは、文学に厳しく、人に優しい方だった。 (了)
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