底流(1-1)

 高校文芸部の年刊部誌「白房」1968年号(3年生時代?)に、僕が初めて書いた小説、「底流」を紹介します。当時、傾倒していた実存主義、新感覚派、新心理主義のごた混ぜと言えば、壮語でしょうか。「白房」に載せなかった、結末を付けます。


  底流(1-1)

 春の日の毎日々々は日の光に溢れてけだるく流れて行った。

 高校に入学して一ヶ月くらいは、青空ばかり続いたようだった。

 その後で雲行きが怪しくなった。彼はひどい憂鬱に陥って、毎日の生活が、ことに学校全体が何か薄暗いものに思えた。授業中の或る時など狂暴な発作めいたものに襲われながら、授業中なれば椅子から立ち上がる事一つ出来ず、前の席の生徒のうなじ、彼の目の前にじっとして動かないそれを憎々しげに見つめた。先生が張り上げている声も、騒音と同じ意味のないものに聞こえた。

 彼にはこれと同じような経験がいま一度あった。別の授業の時、痩せて神経質そうな先生は生徒たちに向かって話しかけながら、黒板の前をしきりに行ったり来たりした。彼の考えは、既に授業を離れてどこかをさまよっていたが、それが先日の生物の授業に飛んだ。生物学が進歩するにつれて、動物でも植物でも生物の内部はそれが生きて行けるように実にうまく出来ていることがわかって来た。ホルモンや酸素量にしろ、たとえ異常が起こってもそれに対応する器官があって、たちまち調整してしまう。機械なら自動調整装置付きという所である。彼は生物を自身の意思以前に生の方向へ方向づけた、いわば造物主とでも呼ぶべき者が、撲ち殺してやりたい程憎かった。

 それにしても生物と機械といったいどこが違うのだろうと彼は考えた。蛋白質が成分であることで定義したなら、他の星に炭素や金属の身体を持ちながら人間のように思考し行動するものが存在しても生物とは呼べなくなる。また自力で子孫を増やして行く事で定義したなら、なるほど現在では自己増殖の出来る機械は現れていないが不可能事ではないし、もし完成した時にはその機械を生物に仲間入りさせねばならない。もともと生物と機械とは折り合わないと考えるのは誤っているのかも知れない。生物は、人間の手の及びそうにないほど精巧な、それでいて脆くもある機械の一種なのだ。

 そんな眼で黒板の前に立った先生を見上げると、それがもう人間ではなく、無機質と有機質と多量の水とを詰め込んだ頭陀袋に見えたのである。先生の黒い両目の中に、彼は泳ぎ回っている粒子を見た。

 その日の夜に見た夢の中までその先生は現れた。影が差して薄暗い廊下に、先生は気味悪い姿で立ちながら、ガチャリガチャリ音立てて彼に迫って来た。

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