初期小説「底流」の(2-4) 彼がバケツを片手に提げて中庭の道を帰りかけると、向うから女生徒二人が何やら話しながらこちらへ歩いて来る。彼は女生徒たちと正面から擦れ違うのは苦手であった。彼の苦しみの一つと言って良かった。近づいて来る二人が、大麻生令子とその友だちだとわかると、彼はさらに不機嫌になった。落ち着きのない視線を、石畳に落としたり、花壇にやったりした。 いよいよ距離が縮まって、彼の目と彼女の目が合った瞬間、幕を垂らしたように周囲が暗くなった。晴天が、一瞬して闇となった。闇の中に周囲のすべてが、彼女の友だちさえも消し去られて、闇を背景に大麻生令子の姿だけがくっきりと映えた。異様な光景だった。彼女は笑っているようだった。大きな目や、口もとが確かに笑っていた。...19Aug2019
初期小説「底流」の(2-3) 小説「底流」の(2-3) 割り当てで彼は掃除に使ったポリ・バケツの濁った水を捨てに行かねばならなかった。把手を持ち上げると片手には重すぎて上体が引っ張られそうだった。階段を降りると狭い出入口をくぐって中庭に出た。空は青く晴れ渡って、外の空気は胸がせいせいした。古びた石畳の通路を歩みながら、彼は両側の花壇に目をやった。矢車草たちがひ弱そうに伸び上がって頂きに青紫や紅色の花をつけていたり、またある花壇には薔薇の赤や黄の鮮やかな花が葉叢から咲き出ていたりした。校舎の西の端にある足洗い場へ彼はバケツの濁った水をあけた。水道の栓をひねって新しい水がポリ・バケツに一杯になるのを待っているあいだ、彼は中学生の頃、父から借りて読み耽ったある種苗...08Aug2019