僕の関わった同人詩誌「群青」第12号(2008年6月25日・刊)より、エッセイ「思い違い」を転載します。
思い違い
新サスケ
誰でも長いあいだ思い違いをしていた事の幾つかはあるだろう。
僕は中学生の頃か、滝廉太郎・作曲の「荒城の月」の出だし、「春高楼の花の宴」の「高楼の」を「頃の」を伸ばして歌うのだと思っていた。「高楼」という難しい言葉を知らなかったのだ。
また島崎藤村の詩集「若菜集」より「初恋」の、「誰が踏みそめしかたみとぞ」の「かたみ」を「固み」だと思っていた。遺品以外にも「形見」という言葉を使うと知らなかった。
高校文芸部の後輩に「寂寥」の読み方を問われて「せきびゅう」だろうと言ったら、知っている者に笑われた。「誤謬」の「謬」の字に似ていると思ったのだ。それから部員の間で、僕は「いいかげんな人だ」と見なされた。
勝負事で「辛勝」という言葉があるが、「こうしょう」と読むのだと思っていた。「辛」と「幸」を同じかと思っているのだから、いいかげんなものだ。
また「掉尾(ちょうび、たくび)という言葉を、「棹尾」だと思っていた。ある公の雑誌にそのまま載って、関係者は困っただろうし、あとで怒ったかも知れない。
学生下宿で、友人に紅茶を出す時、紅茶のパック一つを四つのカップに順に浸して、ある人から「家庭的だね」と憐れまれた。家ではそうしていたから、一つのカップに一つのパックを使うものだと知らなかった。
貧乏や無知は、とんでもない思い違いをして、恥をかくものだ。
人生についても、ある時から僕は人々と戦ってきた(喧嘩をする訳ではない)けれども、社会も人々も思っているより優しいのかも知れない。「アノ惨状ヲ忘レルナ」という声はするが。 (以上)
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